京の辻から

名残を惜しみ、余韻を楽しみつつ

記憶に息づく人たち

うらうらとほんとうに穏やかな彼岸の入りだった。

春季永代経を勤め終えたら当面大きな行事予定もなかった。2014年。息子のところで2日間のお邪魔を受け入れてもらえていたし、2泊3日の予定で上京したいという思いをあたためていた。

義母は96歳と高齢だったが、杖を手に家の中を歩くことができ、健康上特別な不安も抱えてはいなかった。可能ならと無理をするつもりはなかったが、行きたいという思いは強く、熟慮し日程を組んだのだった。けれど、どんなに熟慮しても予想外の出来事はおとずれる。そんな思いを強くしたこと、春の彼岸を迎えるたびに思い出す。義母の祥月命日が間もなくやってくる。

スリッパの音をたて、私の名前を呼びながら足早に廊下をやってくる。“一軒の家”という思いは義母にプライバシーってものを存在させなかった。(来た、来た、来た)と構えて部屋で待った。快活でよく喋った。しゃべり過ぎた!?と私の表情に見て取れば、みずから「口は禍のもと! なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」とつぶやくのが常だった。巧みな自戒の示し方も、繰り返されれば笑ってばかりではすまなくなる。

義母のにぎやかさ、騒々しさが気持ちを波立たせるようにもなって、その毎日を変えたいと思い始めるようになった。30代後半だった。この頃、女性作家の小説やエッセイをあさるように読んでいたのをおぼえている。

1929年に生まれた須賀敦子。大学を卒業したあと1953年、パリに留学した。2年後に帰国しNHKに勤めるが辞めて1958年、29歳の時、つてを得てイタリアへ再び留学し、ローマからやがてミラノに移った。

「なにをどこで間違えたのか、二十九歳にもなってまだ将来のはっきりした設計もないのはひどく居心地のわるいことだった」と書いている(『ヴェネツィアの宿』)。「女が女らしさや人格を犠牲にしないで学問をつづけていくには、あるいは結婚だけを目標にしないで社会で生きていくには…」。

まだまだ海外留学など珍しかった時代に、常に今に安住せず自分が満足する道を模索し、行動している。学んで、自分の道を見つけようと生きる力、強い意志、自他を見つめる深くあたたかなまなざしには感じ入るばかりだ。今の私にはこの行動力を手本にすることはできない。けれど自分の道を大切に、心をつくして生きていくことはできそうだ。

『霧のむこうに住みたい』『コルシア書店の仲間たち』『ヴェネツィアの宿』『精選女性随筆集 九  須賀敦子』。なめらかな文章とともに須賀敦子の一端に触れえたこと、いずれも自分にとっては新刊の作品となる出会いだった。

「私のミラノは狭かったけれども、そのなかのどの道も、だれか友人の思い出に、何かの出来事の記憶に、しっかりと結びついている。通りの名を聞いただけで、だれかの笑い声を思いだしたり、だれかの泣きそうな顔が目に浮かんだりする。十一年暮らしたミラノ…」(『コルシア書店の仲間たち』)

人間は思い出の器だといった人がいる。死別した人も含めて、どれだけの人が私の記憶の中で息づいているだろう。